江田五月 活動日誌 2001年12月 (26〜31) >>日程表 ホーム総目次12月目次前へ次へ


12月26日(水) 挨拶まわり、中国、事務局、不審船、ハンセン病

今日は、終日挨拶まわりです。経営者3人、労組3人の皆さんを回りました。  

海外の事業所から帰任した工場長との話。
工場長:「90年代に入って、外国資本が単独で企業活動を行えるようになりました。合弁の場合でも、外国資本51%、中国資本49%で、一応外国に支配権があるほか、経営陣に加わる中国人も、共産党の人でなくてもよくなりました。それでも、合弁よりも単独資本の経営の方が、業績がずっと上がっています。」
私:「20年ほど前に訪中した時には、外国資本の導入方式は、どこへ行っても『合弁』のことばかりでしたが。その後の大変貌の原因は、やはり開放化の進展ですね。」
工場長:「中国では、賃金のほか、住宅その他の各種手当てが多いのですが、それらを加えても、労働者1人当たりの企業負担は日本の20分の1以下で、しかも労働力の質もずい分上がってきました。」

中国の脅威を実感します。しかし、日本が保護主義に傾くと、国際経済秩序を混乱させてしまいます。
工場長:
「現地にいるときは、もっとここに仕事をよこせと言っていました。しかし帰国して、日本経済の現状を見ると、国内に雇用を維持することが、企業の社会的責任ではないかと思い始めています。」
難しい選択です。

19時から五月会事務局忘年会。

不審船事件。あら探し風の批判は慎みますが、今後のために指摘しておかなければならない問題点が、次々と浮かび上がっています。官邸の認識の甘さは、やはり問題です。海保と自衛隊の連携も、良くないですね。

ハンセン病和解。坂口厚労相のご努力に敬意を表し、感謝します。



12月27日(木) 挨拶まわり、ハンセン病、たぶちさん、年末年始

今日は、9時から挨拶まわり。経営者6人と労組2人。

その間、デスクワーク。電話連絡で、ハンセン病問題について、25日の確認事項や今日の和解期日の模様などを検討し、議員懇談会の会長談話を作成、発表しました。和解成立は、手続きとしては来年に持ち越されましたが、和解で解決するという方針が合意されたので、山を越えたといえます。今後の課題は、25日の確認事項を誠実に実現することです。

15時、たぶち雅子さんが年末のご挨拶に来られました。張り切っておられるようで、若さに期待します。

HPの「政策と実績」につき、この1年分のまとめ方を、湯川政策秘書と協議。振り返ってみると、政治的にも政策的にも、結構実績を上げていると思います。近日中にアップします。

17時から、市内の支持者が来訪、歓談。その後、事務局で暮れの日程調整。例年どおり今年も、年末年始は殺人的な忙しさになりそうです。



12月28日(金) 葬儀、見舞い、忘年パーティーs

今日は、9時半に自宅を発って、御津町で火事見舞い。次いで、建部町で知人の葬儀。民主党の立ち上げ以来、ご尽力いただきました。進行性筋萎縮症で、享年62歳でした。合掌。

昼は、ご支援くださるそば屋さんで昼食。奥さんが、両足とも立たなくなったと言うので、お見舞いも兼ねて。

13時から、労組に挨拶に。知人の病気見舞い。14時過ぎの新幹線で、大阪へ。16時、枚方市で平野博文さんと会い、岡山県議選の候補者選定につき、ご支援依頼。思いがけず、旧知の友人に会えました。

18時前の新幹線で帰岡。19時半、文化人の忘年パーティー。20時過ぎ、小野桂華先生の道文会忘年パーティーへ。抽選が当たったり、カラオケを歌ったり、楽しいひとときを過しました。

21時から、知人のホームパーティー。手作りの本格中華料理を楽しみ、天才的なエレクトーンの即興伴奏で、大いに歌いました。



12月29日(土) 挨拶まわり、たぶちさん、消防団

今日は、11時過ぎから支持者の挨拶まわり。

13時過ぎ、たぶち雅子さんの後援会の餅つき大会で、杵を石臼に当て、木屑が餅に紛れ込んでしまいました。失敗。その後さらに、支持者の挨拶まわり。

19時から、消防団の夜警を回りました。日本の市民社会は、いろいろなネットワークで構成されています。経済活動のネットワークも大切ですが、消防団は、市民生活の中で古くから機能しているネットワークのひとつで、地域の人材養成の役割を果たしています。団員は、それぞれご自分の生業がありながら、ボランティアで消防の訓練に取り組み、出動に応じています。

岡山市内に83分団がありますが、今日は6時間で15分団を回りました。途中、思わぬ政治討論会になったり、ご馳走になったり、賑やかでした。自民党の人との鉢合わせもありました、向こうは消防の人が先導で、「ご一行」という感じ。こちらは1人で「やあやあ」という調子です。



12月30日(日) ライオンズ、挨拶まわり、難病、生け花、コンポスト

今日は、私の所属する岡山ブルーライオンズクラブの餅つき大会が、会長の黒住輝久さんのお宅であり、10時過ぎにお邪魔し、ちょっとだけつかして貰いました。風が強く、庭でもち米をふかすのが大変。

その後、挨拶まわりに出かけました。今夏の参院選では、岡山県選挙区の石田みえ候補につき、中央では社民党と選挙協力の合意があったのに、地元の意向が異なり、推薦を得られませんでした。来年は、再来年の統一地方選の候補者選定などに際し、野党協力が重要です。社民党との意思疎通に、意を用いたいと思います。

途中、難病連の杉原仁さんのお宅に寄りました。奥さんが腎臓病の悪化で入院することになり、杉原さんご自身も難病のため、身辺のことが出来ず、ご夫婦で入院されていたとのこと。小泉首相は、この人たちにも、このうえ痛みを分かち合えと言うのでしょうか。

夕方帰宅すると、びっくり。玄関一杯に、天空の駿馬を思わせる、立派なお正月の生け花が飾られていました。毎年、支持者の方が生けてくれます。

真っ暗になるまで、コンポストの中の熟成した生ごみを、庭に埋める作業。寒さで震え上がりましたが、こういう仕事が一番好きです。



12月31日(月) 大晦日、はたさん、秋山先生、除夜の鐘

今日は、大晦日。穏やかな一日でした。

ゆっくり起きると、湯川政策秘書から、私のHPの「政策と実績」欄の更新用原稿が届いていました。じっくりと手を入れ、完成。今年中に仕上がりました。

本当に出来事の多い1年でした。森政権の無策で、内閣支持率は1桁と無残。KSD、えひめ丸、不況の深刻化。夏の参院選から、政治の大転換へと進むかに見えました。しかし、さすが自民党。小泉新総裁を誕生させ、小泉内閣の異常人気で形成は一気に逆転。秋からは、同時多発テロ、狂牛病、デフレの進行。失業率5.5%となっても、内閣支持率は下落せず、逆に民主党は、党内の乱れもあって、支持率は数%。

私にとっては、長年取り組んできたハンセン病問題と東ティモール問題が、大きく前進した年でもありました。いずれも「意思あるところ道あり」とか「車到山前必有路」という言葉を思い起こさせます。望みを捨てるわけにはいきません。

こういう時は、腰を低く構えて、じっくり力をつけるしかありません。来年こそ反転攻勢。私は、通常国会冒頭の代表質問に立つ予定です。責任重大です。

コンポストの始末の続き、お飾りやカレンダーなど家の中の雑用で、一日が過ぎました。はたともこさんが年末のご挨拶に見えました。頑張っています。大先輩の秋山長造先生からお電話をいただきました。私たちの仲人親です。「ひどい不況なのに、小泉首相の人気が一向に衰えないなど、わけがわからん。」

これから、除夜の鐘を突きに出かけます。煩悩を払って、いい年を迎えましょう。


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